明治38(1905)年 啄木生誕(19歳)

3月2日 一禎、宝徳寺を出て渋民大字芋田に移転。

・5月3日 処女詩集『あこがれ』発行。

高等小学校時代の級友小田島真平の兄尚三の厚意により、尚三出征記念として、その経営する小田島書房から発行された。

・5月12日 一禎、啄木と節子との婚姻届を盛岡市役所に届け出た。

5月20日 結婚のため帰郷の途につく。途中仙台に立ち寄り29日まで滞在。 新郎である啄木が、節子との結婚式に欠席したといわれているが、真相は明らかではない。

・9月5日 『小天地』〈主幹・編集人石川啄木、発行人石川一禎〉を発行。

岩野泡鳴、与謝野鉄幹、正宗白鳥、綱島梁川、小山内薫、平野万里、新渡戸仙岳等の作品を掲載、啄木自身も長詩3編・長歌(小天地巻頭詩)・短歌などを、節子も短歌を発表した。

10月11日 (波岡茂輝宛書簡)「・・我も病の身を喞つ夜を重ね・・。この痩腕にて一家五人のいのちをつながねばならず・・」と、生活難が新婚の家庭を脅かしつつあるようすを記している。一家の経済状態は次第に困窮の度を加えた。

 



明治39(1906)年 啄木生誕(20歳)

・2月16日~21日 一家の窮状打開のため、当時夫が函館駅長であった次姉トラ宅を訪ねるが、不調。(帰りには、野辺寺常光寺に一禎を訪ね、善後策を相談した。)

4月11日 岩手郡渋民尋常高等小学校尋常科代用教員拝命啄木の受持は、尋常科第二学年)。月給8円。

・6月10日 農繁休暇を利用して、父の宝徳寺住職復帰運動のため上京。新詩社に滞在する。その際読んだ、夏目漱石、島崎藤村、小栗風葉等の作品の影響を受けて、帰郷後小説家を目指す。

8月7日 「小天地」発刊にからむ大信田落花への負債を、「委託金費消」事件として告発され、取り調べを受けるが、落花の証言によって、不起訴処分になる。

12月3日 「葬列」が掲載された『明星』12月号を見る。「葬列」は、啄木の活字となった最初の小説であった。

12月29日 節子の実家の堀合家で、長女京子(戸籍名、京)誕生。(届け出は翌年1月1日)「・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日、日記)と喜びを記す。

 


明治40(1907)年 啄木生誕(21歳)

1月 函館の同人雑誌『紅苜蓿』(苜蓿社)に「公孫樹」等を発表。

3月5日 一禎、住職再任の前提である滞納宗費弁済の見通しがつかず、再任を断念して、野辺地常光寺の師葛原対月を頼り家出。再住運動は挫折した。啄木の挫折感も深かった。

3月20日 啄木も北海道での新生活を決意し、函館の苜蓿社の松岡蕗堂に渡道を依頼した。

4月21日 啄木に免職辞令。

 

【北海道滞在スタート】

・5月4日 節子は盛岡の実家、母親は渋民武道の米田長四郎方と一家離散し、啄木は、夫が小樽駅長となった次姉トラ宅へ向かう妹光子とともに渋民を出て、5日函館到着。

6月11日 苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、函館区立弥生尋常小学校代用教員(月給12円)となる。

8月18日 小学校在職のまま、宮崎郁雨の紹介で函館日日新聞社遊軍記者となる。

8月25日 函館大火。市内の大半を焼く。啄木一家は焼失を免れたが、弥生尋常小学校、函館日日新聞社とも焼失。啄木の小説「面影」を含む『紅苜蓿』8号の原稿も焼失した。

・9月11日 弥生尋常小学校に辞表提出。

9月13日 向井永太郎の斡旋と小国露堂(善平)の厚意により、北門新報社(第三次)校正係となるため札幌行き。

9月16日 北門新報社出社。「北門歌壇」を起こし、「秋風記」を掲載。

妻節子等は小樽に行き、次姉山本方に寄寓。

9月27日 小国露堂の薦めもあり『小樽日報』社創業に参加を決意。(月給20円)

10月1日 『小樽日報』社出社(社長は初代釧路町長、衆議院議員の白石義郎。同僚に野口雨情)。

10月15日 『小樽日報』創刊。野口雨情等との、主筆岩泉江東の排斥運動露顕す。雨情は追われ、啄木は懐柔策もあり三面主任(月給25円)となるが、依然として密かに江東排斥を思う。

 ・11月16日 白石社長、啄木の言を容れ、岩泉主筆解任。

・11月19日 「主筆江東氏を送る」を『小樽日報』紙上に掲載。

2月12日 事務長小林寅吉から暴力をふるわれたことを契機として退社(21日退社広告)給料未払いのまま年末を迎え、生活に困窮する。  

 


明治41(1908)年 啄木生誕(22歳)

1月1日 失職のまま「門松も立てなければ、注連飾もしない。」正月を迎える。

1月13日 社長の白石義郎の経営する『釧路新聞』社勤務決定。白石及び沢田信太郎の厚意によるものである。

・1月19~21日 妻子と別れて、小樽を発ち、途中岩見沢に下車し駅長官舎に山本千三郎・トラ(姉夫妻)を訪ね、21日、釧路着。

1月19~21日 妻子と別れて、小樽を発ち、途中岩見沢に下車し駅長官舎に山本千三郎・トラ(姉夫妻)を訪ね、21日、釧路着。節子は、娘京子、母カツとともに花園町14番地に間借りする。極寒の時、釧路の啄木から送金十分ではなく悲惨な生活を送る。

2月1日 「紅筆便り」という花柳界記事の連載も始まる。花柳界にも出入りし、特に芸者小奴との交情を深める一方、笠井病院看護婦の梅川操との事件も起こす。

3月23日 上記の事情と主筆日景安太郎への不満及び創作生活への憧れから東京への思いを強くし、社を休み始める。

3月28日 白石社長からの出社促進の電報などにより釧路脱出を決意。

4月5日 釧路を去って、海路函館へ向かう。(7日着)

4月24日 「文学的運命を極度まで試験する決心」(向井永太郎宛書簡・同年5月5日)にて函館より、横浜行き郵船三河丸に乗り、27日午後6時横浜到着但し、故郷の渋民を通りたくない理由もあり、海路を選択。家族は、宮崎郁雨(大四郎)に托した。

【北海道滞在修了】

 

5月4日 金田一京助の友情で、本郷区菊坂82(現文京区本郷5-5)の赤心館に下宿。

1か月ほどの間に、「菊池君」、「病院の窓」、「母」、「天鵞絨」、「二筋の血」、「刑余の叔父」の6作品、300枚を脱稿するも、売り込みに失敗。煙草銭にこと欠き、原稿用紙、インクもなくなるほど生活に困窮する。森鴎外に、「病院の窓」、「天鵞絨」の出版紹介を懇願する。(「病院の窓」が鴎外の尽力により春陽堂と購入契約。但し、原稿料22円の支払いは8カ月後となった。)小説創作の失敗を自覚。

6月23日 夜、歌興湧き、25日までに250首ほどを作る。「頭がすっかり歌にな」り、「何を見ても何を聞いても皆歌だ」という。下宿代の督促はますます急を告げ、自殺を思うことしばしばとなる。この二日間の歌が「明星」七月号に「石破集」と題して載る。

9月6日 貧窮に喘ぐ啄木を救うため、愛蔵の書籍までも処分した金田一京助の厚意により、本郷区森川町1番地新坂358(現文京区本郷6-10-12)の蓋平館別荘に移る。

・10月19日 節子、函館区立宝尋常高等小学校代用教員として出勤。月給12円。

11月1日 『東京毎日新聞』に「鳥影」の連載(59回)を開始する。

・12月1日 釧路の小奴、前月結婚した夫、逸身豊之輔と上京。啄木を蓋平館に訪ねる。