明治42(1909)年 啄木(23歳)

・1月1日 『スバル』創刊号発行。(啄木は、発行名義人)。『スバル』の誌名は、森鴎外により、発行所住所は、平出修の法律事務所と同じ。啄木も小説「赤痢」を発表した。

2月1日 啄木の編集による『スバル』第二号発行。啄木も自伝小説「足跡(その一)」を非常な抱負をもって発表。紙上で平野万里と短歌論争を行う。「足跡(その一)」が早稲田文学からけなされ非常にがっかりしてあとを続ける気を失った。

 ・2月3日 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)

 ・3月1日 朝日新聞社出社。佐藤編集部長、渋川玄耳(柳次郎)社会部長に会い、校正係としての任務につく。

・4月8日 北原白秋と浅草花街に遊び、末広屋の当時芸者となっていた植木貞子(セン)と一夜を共にする。啄木は就職したものの年来の借財のため家族を迎える準備ができず、また文学思想上の煩悶もあって自虐的な生活を送り、浅草花街に遊ぶ。

・6月2日 節子、函館区立宝尋常高等小学校退職。

6月16日 家族を上野駅に迎える。本郷区本郷弓町2丁目17番地(現文京区本郷2-38-9)の二階二間の間借り生活。この日の朝のことを記して「ローマ字日記」は終わる。妻節子、母カツとの確執に苦しむ。

10月2日 上京後の生活や姑との軋轢、7月以降の肋膜炎の病苦に耐えかねて、妻節子が書置きして、娘京子と盛岡の実家に帰る。宮崎郁雨に嫁ぐ妹ふき子の結婚を手伝うためでもあった。

・10月26日 節子は、金田一京助と恩師の新渡戸仙岳の尽力で帰宅するも、この事件は、啄木に深刻な打撃を与え、文学上の一転機をもたらした。

・この年の文筆活動は、前半が小説。後半が感想・評論を主とし、年末には、「夏の街の恐怖」、「事ありげな春の夕暮」などの長詩を残した。

 


明治43(1910)年 啄木(24歳)

1月1日 『スバル』第二年一号発行(発行名義人は、江南文三に変わる。)

・4月4日 東京朝日新聞社・社会部長渋川柳次郎(玄耳)の勧めにより、処女歌集の編集を始める。

・6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」報道し、全国民を驚愕させる。啄木も衝撃を受け、社会主義思想に関心を持ち、多量の社会主義文献を読み、次年の日記の「前年のまとめ」の項に、「六月ー幸徳秋水等の陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。」と記したごとく、思想上の転機となる。[啄木自身も、6月21日~7月末にかけて、「林中の鳥」の匿名で、「所謂今度の事」を書き上げ、東京朝日新聞の夜間編集主任であった弓削田精一に掲載を依頼したが、掲載されなかった。]

・9月15日 渋川柳次郎の厚意により、新設の『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(啄木選歌は、翌年2月28日まで。82回。投稿者183名。総歌数568首)

・10月4日 東雲堂と歌集出版契約。(原稿料20円。うち10円を同日受け取る。)長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生。妻節子、産後不調。10月9日 東雲堂主人西村辰五郎(陽吉)に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。(原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。)

・10月から、家計維持のため三日に一度ずつ夜勤をするも、身体の不調を覚え年内までとする。

・12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。序文藪野椋十(渋川柳次郎)、表紙絵名取春僊。歌数551首。定価60銭。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。 

 


明治44(1911)年 啄木(25歳)

 ・2月1日 東京帝国大学医科大学附属病院三浦内科で青柳登一医学士の診察を受け、慢性腹膜炎と診断され、入院を命ぜられる。

 ・3月15日 午後退院。以後自宅療養。(しかし、病状は、相当に進行していたと見るべきであり、その後の勤務復帰はならなかった。)

・6月3日~6日 節子の父堀合忠操が、函館の樺太建網漁業水産組合連合会に就職したため、函館移住の家族を送るために実家に帰りたいとする節子とトラブル。前々年秋の節子家出事件に懲りた啄木が帰省を許さなかったことによる。これが原因で堀合家と義絶。

・7月28日 節子、東京帝国大学附属病院青山内科における診察によって肺尖カタル。伝染の危険ありとして、炊事は、カツの仕事となる。

・8月24日 母カツが高熱と下痢で倒れ、腸カタルと診断される。

・9月 宮崎郁雨が節子に出した手紙が原因で、親友であり、義弟であり、経済的支援者でもあった宮崎郁雨と義絶。この義絶が、啄木にとって、種々の面でいかに決定的なものであったかは、経済的には節子が、9月14日からつけ始めた「金銭出納簿」にその具体を見ることが出来るし、文学的にも、以後の啄木に、これといった作品が提出されなかったことにも見ることが出来よう。

9月中旬 娘京子、肺炎で倒れる。

 


明治45(1912)年 啄木(26歳)

 ・1月23日 母カツ、近所の開業医(宮内省侍医)三浦省軒の代診の診察により、結核であることが判明。江馬修の厚意により訪れた医師柿本庄六の診察結果も同じものであった。母は喀血が続き重体。

・1月24日 佐藤北江へ母の病状と、一家病人と化した近況を報告、施療院への入院を断る。

・2月20日 最後の日記を書く。以下が全文である。 

 

二月二十日(火) 日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
 母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。               

・3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。

・4月13日 早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水であった。26年と53日の人生であった(1912年は閏年)。

・6月14日 次女房江誕生(節子の療養先にて)

・6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。総歌数、194首。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具(おもちゃ)である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日~20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。

・9月4日 節子は、京子・房江の二人の遺児を連れて、当時は函館に移住していた実家に帰り、借家生活(青柳町32番地)を始めたが、翌年の1913年(大正2年)5月5日、午前6時40分、肺結核のため函館区豊川町34番地豊川病院で亡くなった。(法名貞安妙節信女)享年26歳6カ月。