釧路港

釧路港のはじまり

釧路港は17世紀中頃、釧路川河口に松前藩主がアイヌとの交易のために商船がやってきたのが港のはじまりとされている。また、釧路港のことは、寛政3年(1791)の「東蝦夷道中記」に記述されている。
 

江戸時代、釧路港は「クスリ泊」と言われていた。

左図の赤点線は、下図の船が停泊しているエリアで「クスリ泊」である。その左側の台地は「知人岬」、右側の出っ張りは砂州で「オダイト」と呼ばれていた。

釧路港はここが起源となっている。


クスリ泊のすぐ近くには「クスリ会所(南大通り8丁目の佐野碑園一帯)」が置かれ釧路の発祥の地であった。港と役所は一体として構築された。

以後、釧路は港を基に発展していくことになる。

 

クスリ川は内陸物流を支える重要な河川とされ、「釧路ー標茶ー多和ー標津」を連絡すると共に、「塘路ー弟子屈ー塘路」、さらに阿寒川によって「阿寒湖」とも物流で結ばれていた。

 クスリ場所の範囲は現在の釧路支庁よりも大きく、東は厚岸郡を除くが、北側は足寄や北見が含められていた。

※クスリ場所

 現在の厚岸町、浜中町が除かれ、足寄や北見が含まれていた。

明治期になると釧路港は硫黄などの積み出し港の役割を担い、その重要性を高めていた。

 

佐賀商人の「武富善吉」が明治13年に釧路に進出(従前事業主である佐野孫左衛門の事業を継承)し、その後海産物の移出が急増し、クスリ泊が大きく成長。いずれも、函館からの進出事業者であり、物資は一部を除いて函館に回送されることが多かった。

 

クスリ泊の左側の出っ張りは砂州「オダイト」で、大正初期には魚菜市場も設置されていた。 

明治29年北海道国有鉄道敷設法が施行され、釧路ー旭川ー札幌間が第1期線として、最も建設順位の高い路線に位置づけられ、釧路と旭川を起点として明治33年に着工された。

明治40年9月には釧路ー旭川間が開通し、函館までの路線がつながることとなる。

(※「啄木と釧路」欄でも示したが、啄木は鉄道開通の4か月後に国鉄で釧路入りしている)

 

このように、当時は釧路港の重要性から鉄道建設の起点となるなど、釧路の地位は北海道内でも高いものであった。

 

釧路川では、埋め立ても進められ、明治35年にはオダイトと幣舞橋間の埋め立てに着手されている。この埋め立ては、旧市街地の洲崎町、真砂町の洪水を防ぐ目的も兼ねられていた。

釧路港の整備・拡張・発展

釧路港修築計画

第1期拓殖計画(明治43年~昭和元年:17年)

・被覆面積41万坪

・南防波堤の築造

・トンケシ砂防堤の築造(その後、阿寒川を現在の新釧路川へ通水することが決まり、当該棒査定は建造中止)

→大正5年に北防波堤の築造決定(被覆面積67万坪)

 

第2期拓殖計画(昭和2年~昭和12年:10年)

・副港(漁港)を新設し被覆面積75万坪

・東、西、北防波堤の完成

釧路港のいま