明治19(1886)年2月20日 啄木生誕(0歳)
・岩手郡日戸村(現玉山村日戸)の曹洞宗常光寺(父方の実家)に父 一禎、母 カツの第三子(長男)として生まれる。名前は一(はじめ)。
明治20(1887)年 啄木(1歳)
・隣村の宝徳寺十四世住職・遊座徳英の急逝に伴い、一禎は同寺十五世住職となり、一家は渋民へ転住。
※前住職遊座徳英の妻子は寺を出て生活に困窮し、未亡人サメは檀家の佐藤家に、長男は(岩手町)川口の小学校の代用教員に、三男は岩手県北方の御返地の寺へ、四男は遠野近くの達曽部へと、一家離散した。そうした、ある意味では強引な一禎の宝徳寺転住は、後の一禎や啄木の一生にも微妙な影を落とすことになる。
明治24(1891)年 啄木(5歳)
・5月2日 学齢より1歳早く、渋民尋常小学校入学。当時は、現在のような堅固ないっせい入学制度ではなかった。
※ < その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ >『一握の砂』明治28(1895)年 啄木(9歳)
・渋民尋常小学校卒業入学。主席だったとされている。
※ < そのかみの神童の名の かなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと >『一握の砂』
明治29(1896)年 啄木(10歳)
・高等小学校1年修業。当時の成績は「善・能・可・未・否」の五段階で示されたが、啄木は「学業善、行状善、認定善」だった。
明治31(1898)年 啄木(12歳)
・3月25日 盛岡高等小学校修業証書授与式。3年間の成績は、いずれも「学業善、行状善、認定善」。3年間を通して啄木は首席。
・4月11日 岩手県盛岡尋常中学校入学試験。4月18日 128名中10番の好成績で合格。
・4月25日 入学式。クラスは身長順に甲・乙・丙に分けられ、啄木は丙1年級編入。南部藩の「立志」の思いが全校に溢れていて、この中学校から、官僚的束縛を受けにくい軍人、財界人を初めとして、多くの人材を輩出した。2年に、板垣征四郎(陸軍大臣)、野村長一(作家・胡堂)、3年に、及川古志郎(海軍大臣)、金田一京助(言語学者)、田子一民(衆議院議長)、5年に、米内光政(首相)らがいた。
明治32(1899)年 啄木(13歳)
・1年次修了時成績は、131名中、25番。学校名が岩手県盛岡中学校と校名変更。
・のちに結婚する1年下の堀合節子も、盛岡高等小学校から、私立盛岡女学校2年次に編入する。この年に二人は初めて出会うこととなる。
・夏休みを利用して最初の上京。6月5日、上野駅に転任した次姉トラの夫山本千三郎宅に滞在。上野の杜と品川の海を見て帰る。
明治33(1900)年 啄木(14歳)
・2年次修了時成績は、140名中、46番。
・4月 丁3年次進級。担任は三度富田小一郎。
※ <よく叱る師ありき 鬚の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき >『一握の砂』
・この年、上級生の及川古志郎(後に海軍大臣)を知り、与謝野鉄幹の『東西南北』『天地玄黄』の手ほどきを受け、その紹介でやはり上級生の金田一京助を知り、『明星』閲読に便宜を得、与謝野晶子らに圧倒的な影響を受けた。また、野村長一(後の胡堂)などの影響により文学に志す。
明治34(1901)年 啄木(15歳)
・3年次修了時成績は、135名中、86番。
・9月21日 回覧雑誌『爾伎多麻』第1号発行。啄木は「翠江」の筆名で、美文「秋の愁ひ」と短歌「秋草」30首、「嗜好」等を発表。現存する啄木最古の作品。同雑誌は、2号まで発行された。
・12月3日から翌年1月1日にかけて『岩手日報』に「翠江」の筆名で、友人たちと結成した「白羊会詠草」を発表。啄木短歌で活字となった最初の作品であった。
※< 迷ひくる 春の香淡きくれの欄に手の 紅は説きますな人 > 岩手日報12月3日
明治35(1902)年 啄木(16歳)
・4年次修了時成績は、119名中、82番。
・4月17日 4年次期末試験において、不正行為があったとして譴責処分。
・7月15日 1学期末試験においても、啄木は友人の狐崎嘉助に代数の答案を見せてもらい、二度目の譴責処分。1学期の成績は、「修身、作文、代数、図画」不成立、「英語訳解、英文法、歴史、動物」不合格。出席104時間、欠席207時間。
・10月1日 『明星』第3巻、第5号に < 血に染めし 歌をわが世のなごりにてさすらひ ここに野にさけぶ秋 > が掲載される。
・この年、2月・5月・9月・10月と授業料支払いの督促を受けている。
・10月27日 当時の盛岡中学校校則からすると、落第は必至であることもあり、「家事上の都合」をもって退学願い提出、持ち回り会議によって退学許可。エリート街道を進んできた啄木の転身の契機の一つとなる。
・10月30日 文学で身を立てるべく渋民を出発して上京。
・11月10日 渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪問。以後夫妻の知遇を得る。鉄幹は後年この日の啄木について、「初対面の印象は率直で快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。」と語っている。
明治36(1903)年 啄木(17歳)
・1月上旬 下宿料滞納により、大館みつ方を追われる。2月下旬にやむなく帰郷。
故郷の自然と堀合節子との愛によって慰められる。
・11月1日 『明星』卯歳第11号の社告に石川白蘋等を新詩社同人とするとの発表が掲載される。 ・12月1日 『明星』に石川啄木の筆名で掲載された「愁調」5編は、新詩社を初めとして多くの注目を集めた。この時が、筆名「啄木」の使用開始である。以後、この詩の好評に自信をえて、啄木の名で精力的に詩作をつづける。
明治37(1904)年 啄木(18歳)
・2月3日 母カツ堀合家に結納を持参し、堀合節子との婚約成る。
・3月3日~19日 『岩手日報』に 「戦雲余録』を8回連載(2月に勃発した日ロ戦争余禄)。
・9月28日~10月19日 当時小樽にあった次姉トラ宅(夫山本千三郎は、当時小樽中央駅駅長)等を訪問。詩集刊行資金調達が、その直接の目的であったが、トラが病床にあったこともあり、果たせなかった。
・10月31日 処女詩集「あこがれ」発刊のため上京。
・12月26日 父一禎、宗費113円滞納のため、曹洞宗宗務局より、住職罷免の処分。以後の啄木の生涯に重大な影響を与えることとなる。
・この年、旺盛な詩の発表を行い、『明星』の他にも『時代思潮』(3月、4月、7月、8月、10月、12月)、『帝国文学』(3月)、『太陽』(8月、12月)、『白百合』(6月、7月、9月、11月、12月)等に連続して発表した。
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画像:啄木と港文館
作者:Khana
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