ここに記載した内容は解釈の一つであり、啄木研究家にとって確定されたもの以外も含まれます。
明治41年1月21日の午後9時すぎに啄木は釧路新聞社社長の白石義郎(兼小樽日報社長)と共に釧路駅に降り立った。
迎えにきていたのは、釧路新聞理事の佐藤国司。その日と翌日はこの佐藤邸に宿泊している。
石川啄木は釧路市大町(当時は洲崎町1-32)にある関という下宿で生活をしていたとされる。
2階の一番奥の右側が啄木の部屋とされている。隣部屋は甲斐昇(北海旭新聞釧路支社長)。
この見取り図が正しいとすると、階段はとても急だったと推察される。
建物は木造柾葺屋根。
下宿料は布団代2円を含んで14円50銭、8畳間。
下宿には50歳に近い女将のほか女中が3名いた。
(出典)見取り図は「啄木に魅せられて(北畠立朴)、内容は「石川啄木と北海道(島影社)」
啄木の釧路での生活は借金によって支えられていた。
釧路新聞からの給与は決して低いものではなかった。
当時の官立大学の初任給は30円、私立大の初任給は25円程度であった。
啄木は、十分な所得を得ながらも、料亭などへの支払いに窮しており、返済した記録は残されておらず、借金及び未払金は全て踏み倒したものと言われている。
しかし、これらは全てが遊興のために費やされたわけではなく、新聞取材、他社への政治工作等を目的としたものが多かった。
■啄木の釧路新聞給料25円(釧路滞在中の総給料65円)
■啄木の借金
・日景主筆 5円(1/24)
・佐藤理事10円(1/31)
・宮崎郁雨50円(2/26,2/28)
・宮崎隆12円80銭(2/29)
・保野病院4円
・遠藤隆15円
・下宿への未払金50円
・正美堂書店への未払金16円
・喜望楼への未払金7円
・しゃも寅への未払金12円
・鹿島屋への未払金22円
啄木の釧路新聞記社の人事構成は
・社 長:白石義郎
・理 事:佐藤南畝
・編集長:日景緑
・記 者:石川啄木(三面主任)、上杉小南、佐藤衣川、永戸泔水
また、啄木が釧路新聞記者としての記事は以下のとおりである。
「啄木・釧路の七十六日間(宮之内一平)」「釧路での啄木を語る(石川定)」「石川啄木と北海道(福地順一)」などによると、おおむね110編程度の記事を担当していたようである。
啄木が釧路に滞在中(76日間)に料亭に行った記録を示すと以下のとおりである。
啄木の料亭への訪問は公式行事が4回、そのほかの24回は私的な訪問であった。
同じ日に2か所をはしごしたことも4回ほどあった。
最も多かったのは、しゃも寅の12回、次いで喜望楼の8回であった。
3月23日(月)から釧路新聞社を休んでおり、日景編集長との確執が表面化してからは料亭へは足を運んでいない。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしく町にあゆみ入りにき
啄木が釧路の地に足を踏み入れたのは明治41(1908)年1月21日の午後9時30分。
旭川から釧路間が開通したわずか4か月後に啄木は終着駅の釧路に降り立った。終着駅という寂しい響きが少なからずあったことであろう。
また、当日の最高気温は-9.2度。最低気温は-24.4度と極めて寒い日であった。
さらに、降り立った駅周辺はまだまだ人家も少なく、当時の中心は幣舞橋から南側のエリアであった。これらの要素が複合されて、「さびしき」思いを強くしたものと思われる。
【気温データ】
啄木が釧路に滞在した1908年1月21日~同年4月5日までの気温が、その前年(1907年)、その翌年(1909年)と比べてどうだったかを検証すると下グラフのとおりである。
最低気温(グラフ上図)は対前年、対翌年と比べても10度以上低い日が結構な頻度でみられる。
また、最高気温(グラフ下図)も対前年、対翌年と比べても5度以上低い日が結構な頻度でみられることから、明治期後半時代においても1908年は寒い冬であったことが推察される。
3月後半からは反対に暖かな傾向となっており、啄木を送り出す釧路の優しさだったのかも知れない。
※データ出典:気象庁
小奴(渡辺ジン)は明治23()年3月7日、函館で生誕。尋常小学校2年生まで函館で渡辺庄六、ヨリの長女として生活を共にするが、翌年の9歳のときに十勝大津の坪ツルの養女となる。
その後、帯広の函館屋という置屋に預けられ、高等科4年までの8年間上等教育を受ける。明治39年2月、釧路で再婚した実母を頼って釧路へ。翌明治40年から丸長料理店で「才三」という名でデビュー。その後、厚岸、函館と移り住んだ後に、釧路に戻る船の中でしゃも寅の女将と知り合い、料亭しゃも寅のお抱え芸者となった。17歳のときである。
小奴は「色白で背もすらりとした美人で、芸も上手で気立ても良かった」ことから釧路の芸界ではすぐに人気者となった。
啄木が小奴と出会ったのは18歳のとき。
啄木と小奴は相思相愛の関係にあり、お互いの家を訪問するも、二人だけで会ったことは啄木が釧路を離れる前の日だけであったとされている。
啄木が釧路を離れた後、小奴(19歳)は大阪炭山鉱業事務所の逸見豊之輔(27歳)に囲われ芸者を辞めることとなる。その年の12月、逸見と小奴が東京へ行った際、小奴は啄木と密会している。
逸見と小奴の間には明治43年、長女貞子を授かったが、逸見の事業が思わしくなくなった大正2年に離婚している。昭和37年まで釧路で過ごしていたが、京都、富山、東京足立区と転々とした後、最後はと東京都南多摩郡多磨町の老人ホームで老衰のため没。享年76歳であった。
■梅川ミサホ、小菅まさえとの関係
女性としても興味をもっていなかった梅川ミサホ、小菅まさえから言い寄られてきたこと。深夜の訪問によって、その翌日2月23日(月)に臨時の休みをとることとなる。休みを会社に伝えた時間が午後1時ということもあり、会社からも批判が出た。
■喜望楼女将による小奴との離間
啄木が最も気になっていたのが小奴。「紅筆だより」でも小奴は12回も登場している。啄木は、小奴のいるしゃも寅に頻繁に通うようになり、喜望楼にあまり顔を出さなくなったこともあり、喜望楼の女将が啄木と小奴離間を行った。啄木にとっては実に不愉快なことであった。
■北東新報社への画策とそれから生じた人間関係
釧路新聞と覇権を争っていた北東新報社を啄木の一人判断で取り潰しのために画策を図った。社長などが不在時の画策が行われた(北東新報社の職員を勧誘して辞めさせ、その影響もあり廃刊になる)。しかし、釧路新聞の首脳陣が望んでいたことでなかったことから、次第に経営陣と確執が生じる。時を同じくして2/23の会社を休んだことが怠業として社長に報告され、出張中の社長から「ビョウキナヲセヌカヘシライシ(不平病は治らないのか。返事を待ちます)」の電報を受け取り、退社を決定づけたとされる。
上記のほか、中央文壇への情景、寒冷な地方生活への嫌悪感(東京病)などが因となり果となって離道を決心させたものと思われる。
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作者:Khana
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